・・・今回はネタバレ注意・・・映画本編をご覧になってからお読みください。
皆様、お久しぶりです。
またしても1ヶ月ぶりのご無沙汰となってしまいましたことをお許しください。
特別忙しかった訳でもなく、休日は家に居ることが多いのですが、今イチやる気が起きずズルズルと引きずってしまいました。
理由は分かっています。バイクです。
思いついた時に気軽に出かけられ、旅先でも道の間違いを気にせず走れるバイクに乗れなくなってからはや1年。今年の桜の旅は、小規模なものに終わってしまいました。
今の私は、「バイクが欲しい!」熱と、「旅に出たい!」熱が脳を侵しています。
2週間前には本気で購入する(貧乏なのでローンですが 笑)気になって、バイク屋に足を運んだ程です。
残念ながら、狙っていたバイクが売れてしまったので、また振り出しなのですが・・・
どうやら今年は、これの繰り返しに終始しそうです。
「ピースメーカー」は今から10年前、1997年の作品。スピルバーグ監督が2人の実業家と共に造ったドリームワークス映画の最も初期の作品です。
監督は、コラムでは2度取上げたミミ・レダー。TVシリーズ「ER」での演出を買われ、この映画が初監督作品です。2作目「ディープインパクト」3作目「ペイ・フォワード 可能の王国」が繊細な作品であるのに対して、この作品は非常にダイナミックです。
映像と音楽に緩急をつけ緊張感を生み出す序盤20分は、観る者を引きつける魅力を存分に発揮しています。
ガンマニアの間では間違いを指摘されていますが、私たち素人が観る分には全く問題がなく、むしろその間違いが緊張を高めるひとつになっている気もします。
何が間違っているのか?
それはここでは述べないでおきましょう。探してみて下さい。
さて序盤を過ぎると、緊張感みなぎるアクションとハンス・ジマーの激しい音楽も止み、一見地味な印象を拭えません。二人の主人公の駆け引き中心に展開が変わっていくのです。
責任者になったケリー(ニコール・キッドマン)と、手助けの為に軍上層部が呼んだ問題児デヴォー(ジョージ・クルーニー)。大任での初めての指揮に戸惑いながらも自己流に物事を進めようとするケリーに、食って掛かるような印象さえ与えるデヴォー。知性あふれる「机上論」のケリーに対して、事実と勘で動く「現場」のデヴォー。
そんな二人がいきなりかみ合う訳がありません。
しかしこのシーンが現代社会の縮図でもあり、映画後半で語られる人種問題への布石にもなっている、と私は考えます。
東欧へ向かう専用機機内での駆け引きは、互いの持論を静かにぶつけ合い探り合って、一見溝を深めているようにも見えます。
でもこのシーンは二人が理解を含める切っ掛けであり、事務方と現場との歩み寄りにもあたるのです。
ここでデヴォーは現場ならではの意見を述べます。
「善玉と悪玉」の話です。しかしケリーの口から語られたのは、事務方らしからぬ発言でした。
「罪の無い人を殺して、胸の怒りと不満、憎しみをぶつけるの」と。まるで現場を見て来たかのような、そして女性ならではの発言です。
さらにケリーの最後の一言がデヴォーを納得させた、と私は思っています。あのデヴォーの視線は、きっとそう語っています。
そんなケリーの言葉を証明するように響く悲しい旋律とともに、見える東欧の現実。戦争の傷跡が痛々しいボスニアの姿。
破滅によって主義主張を訴えようとする男デューサンの荒み悲しむ心を写しているかのようにさえ思えるその旋律は、ハンス・ジマーの激しい音楽とは対照的で、この手の映画ではあまり触れたがらない私たちから見た「悪玉」の心を見事に表現しています。
ちょっと話がそれますが、私がなぜこの映画が好きなのか?を触れさせて下さい。
この映画は戦争映画ではないけれど、当時の世相を反映しつつ、実は戦争よりも恐ろしい事実が世界のあちこちで起こっていると訴えています。そのメッセージは、派手なアクションの陰に隠れて見失いがちです。
スパイ映画ばりに世界のあちこちへ飛び回りテロリスト相手に戦いを繰り広げますが、その反面、先ほどのデューサンの心を伺わせるシーンもきちんと描き、何が善で悪であるか?が昔程簡単ではない事を理解させてくれる映画であると思うからなのです。
事実、911テロを巡る世界各国の思惑とは相反するように、人類はテロを引き起こす国の実情を見て同情しています。もちろんテロ行為は許されない事ですが、なぜそうなってしまうのか?と言う本質を見るようになったのではないでしょうか。
そういった意味では、この映画は「商業映画」としての派手さを保ちつつ「メッセージ」の込められた作品と言えます。
物語中盤では、見えない敵を探る二人の奮闘がメインとなります。
特にオーストリアでのカーチェイスは、この映画での売りのひとつになっています。
私には、カーチェイス後にデヴォーが悲しみに暮れるシーンを引き立てる為にここまで派手なシーンは必要ないかなとも思えるのですが、これも商業映画の宿命なのでしょう。
物語中盤ではデューサンも頻繁に登場します。初めて観る方へは、この映画の見えない結末を導きだす役割でもあるのですが、何度も観ている方へは「なぜその覚悟を持ってまで行動を起こすのか」が見えてくるシーンでもあります。
特に、時間にしたら1分にも満たないピアノを弾くシーンは、忘れられません。
これまでに受けた己の悲しみと、これから起こそうとする行動への迷いが交錯する、あの表情。
テロを起こす側にも、人間の心があると言う事を端的に描いています。
核弾頭を積んだ車両を発見した二人は、いよいよ行動を起こします。
他国へ踏み入る「内政干渉」です。
煮え切らない国の上層部にしびれを切らしつつも、それまでに二人が築いて行きた信頼関係がはっきりとしてきます。
「核弾頭が運ばれるのを黙って見ていられるのか?」とデヴォーが語る台詞は映画の台詞としてだけでなく実世界とも被る程に大きな説得力があり、やむなくケリーは送り出します。
このシーンは現在多くの国が抱えている問題を提起しているとは思えないでしょうか?
平和の名の下に許されるとしている、他国への干渉、特に軍事干渉がどうあるべきなのか?
一刻も早く「核弾頭」を確保したい現場のデヴォーと、問題を大きくしないでなんとか解決させようと戦争責任まで背負うケリー。
どこかが攻撃される(またはその脅威にさらされる)前に、それを抑えるため軍事侵攻(この映画の場合理由が何であれ、他国の兵器が国境を越えるので)する事が許されるのだろうか?
難しい問題です。
アメリカは過去に何度かそのような行動を起こしています。そしてどれもが結果的には失敗だったと、私は思います。
なぜでしょう?実際に見た訳でもない私には断言出来ませんが、そこに相手を思いやる心が無い事が一番の理由だと思いませんか?
軍事行動に心なんて意味が無い、それも事実です。
しかしそこへ行くまでの道のりの途中に、何度もその心を思いやる機会があるはずなのです。
なのに道のりの途中では双方の利益ばかりを追求するがために最大限の努力は伴わなく、結局武力で最大限の圧力を発揮してしまう。
この愚かさが、悲しみの連鎖を生んでいるのです。
出来る事なら、デューサンは核を背負ってアメリカを恐怖に陥れたくはなかったはずです。
家族の墓参りをするシーンでも複雑な表情を見せている事から、明らかです。
物語後半でケリーたちに送られたビデオによる声明文は、デューサンの痛々しい心を押し隠し、世界の間違いを短くはっきりと伝えています。
「争いと分断を生む無意味な「平和の維持」に対して、「平和を生み出すもの」を贈る。」
言葉だけでは恐ろしさが伝わりませんが、平和の維持を「他国の軍隊と武器」に置き換え、平和を生み出すものを「核兵器」に置き換えたらどうでしょう?
その恐ろしさは計り知れません。
たったひとつの核弾頭だけで、数十万人を一瞬にして殺傷。
「そこまでしなければ、お前たちは間違いに気づかないのか?」デューサンはそう訴えているのです。
もちろん、その方法は間違っています。
しかし実際はどうでしょう?
911テロで、初めて自国に攻撃を受けたアメリカ国民は当初、テロへの憎悪を抱きました。それが他国への軍事干渉(この場合私は戦争だと思っていますが)へと結びつくのですが、結局その解決方法が間違いだったと後に気づきます。
「そこまでされなければ、間違いに気づかなかった」のです。
双方の国にとって、悲しい歴史になってしまいました。多くの犠牲がはらわれました。
だからこそ、その教訓を生かさなければならないはずなのです。
だからこそ、デューサンは攻撃された立場の痛みを持って、その決意と換えて挑んだ訳です。
デューサンが争いを望まない人間であるのは、ここまで映画を観て来た人に取っては明らかです。
テロを起こしてはいるのですが、平和を心より望んでいる人間なのです。
繰り返しますが、テロは決して許される行為とは思っていません。
しかし人間は間違いを起こします。
その間違いを真摯に受け止める姿勢が必要だ、とデューサンは訴えているのではないでしょうか?
ニューヨークでのパニックシーンは、アメリカならではの迫力です。
しかしミミ・レダー監督はその中にも、問題点を含ませています。
これは今となって言える事ですが、911テロ後の過剰なまでの自己防衛とオーバーラップするシーンがあるのです。
犯人の特徴であるバックパックを持つ人を無差別に押さえ込み、中身を検査する。
以前紹介した「エグゼクティブ・デシジョン」は、911テロの土台になったのでは?と騒がれましたが、「ピースメーカー」はむしろ未来を予見していたと言えるのではないでしょうか。
多くのアメリカ映画と同じで、この作品のラストは「大惨事」では終わりません。
核弾頭の起爆解除等、緊張漂うシーンの連続で観る者の手に汗握らせ、無事解決と終わらせているのですが、私には決してハッピーエンドだとは思えません。
この映画の場合娯楽大作と言う前提があるのですが、爆発してしまっては敵意をあおるだけですし、それまで訴えて来た隠れたメッセージは意味を持たなくなってしまいます。
倒れるデューサンを前に、デヴォーの発する言葉にも大きな意味があります。
「我々の戦争ではない」・・・先進国が陥りがちな無責任な発言です。
「そうかな?」・・・・・・・この言葉の意味は非常に重いのです。
核爆発は抑えた、しかし首謀者は死に本当の動機は永遠に不明。
そして、観る者に何が善で何が悪であるか?よりも大切なものがある、それを考えて下さい!そう訴えているのではないでしょうか?
最後になりますが、私はこの映画の続きが観たいと思っています。
もちろん製作されていないので無理なのですが、この大惨事を未然に防いだ二人の心にどんな変化があって、その後どのような活動をしているのか?を観てみたいのです。
どうでしょうね?
社会派のミミ・レダー監督なら、映画になるかどうかは別として、考えている気もするのですが・・・
今回は娯楽大作に隠れたメッセージを紐解いてみましたが、いかがでしょうか?
次回とその次は時代と共に変わりゆく戦争映画を、紹介して行こうかと思います。
次回は同じくドリームワークス映画の「プライベートライアン」
この作品は、簡単な紹介など不必要でしょうね。スピルバーグ監督の代表作のひとつです。
もうひとつは1994年の作品「ブローンアウェイ ~復習の序曲」です。
こちらに関しては、娯楽大作、そしてMGM映画設立70周年記念作品として造られた割には、あまり知名度が無く、ネット上でもそれほど評価されていないのが実情です。あまり日の目を見ていない作品ともいえるのです。
こちらに関しては、私の好きなある映画との共通点等を織り交ぜて紹介したいと思います。
どちらも、今回と同じくネタバレ全開で行きますので、皆様も予習を忘れずに!
「プラーベートライアン」は1500円で、「ブローンアウェイ ~復習の序曲」は期間限定で1000円で販売されていますので、是非ご覧になって下さい。
それでは、また!
映画データ
1997年アメリカ映画 124分
監督 ミミ・レダー
脚本 マイケル・シーファー
撮影 ディートリッヒ・ローマン
音楽 ハンス・ジマー
出演 ニコール・キッドマン ジョージ・クルーニー マーセル・ユーレス アレクサンダー・バルエフ 他
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