2006年7月22日土曜日

A.I.

唐突ですが、近未来を描くSFドラマに観客が望む「物語」とは何でしょう?

殆どの人は、「夢が拡がる世界」や「果てしなく大きな物語」、そして「希望に満ちた世界」を望むでしょう。

実際にヒットした映画から見られる傾向は、上記に近い物語だったりします。

でもこの映画「A.I.」は違うのです。

人間の勝手が生み出した「地球温暖化」によって、壊滅的な打撃を受けた未来の物語です。

しかしそこに生きる人々に危機感はなく、ただ環境だけが悪化している、そのようにしか見えません。

事実、ディビットの父と母が住む家は上流階級のように優雅で、沈み行く世界の危機感を全く感じさせません。

この描写は、現在の地球を表していると言えるでしょう。

現在の地球は確実に破壊されているのに、そこに生きる人類にはその危機感がない。全員が、とは言いませんが、限りなく100パーセントに近い人が、危機感を感じていないのが事実です。

この未来世界観は、映画の企画者であるスタンリー・キューブリック監督の訴えたかったひとつの題材であるのではないでしょうか。

さてこの映画は、スタンリー・キューブリック監督が永年温めてきた企画を、死後にスティーブン・スピルバーグ監督が映画化した作品です。

要所要所にキューブリック色を見せながら、全体はスピルバーグ映画としてまとまっています。

込められたメッセージはキューブリック色、醸し出される世界観と心の鼓動はスピルバーグ色と言い換えれば、分かりやすいかと思います。

劇場公開当時販売されたパンフレットには、映画化権を取得してから映画が完成するまでの事細かな経緯が記されていますが、その中でスピルバーグはこう述べています。

「この作品はキューブリックのコンセプト、アプローチ、そして哲学自身をキューブリックがまとめ上げ、それを私が具現化した、と言えるだろうね。」

本人がそのように語っているのだから間違いはないのでしょうが、私にはスピルバーグの訴えたかった事もこの映画には反映されている気がしてならないのです。

それは「人種差別」です。

スピルバーグと言えば一般的に知られているのは夢のある娯楽作品ですが、ここ最近はその色が薄れ、自身の「生」を形成する上で重要な出来事である、人類の過去の過ちを描く事が多くなっています。

日本で今年公開になった「ミュンヘン」等は、その集大成とも言われています。

それ以前にも幾つかの作品で、多くの観客を涙させる手腕を見せ、メッセージを発しています。「カラーパープル」や「シンドラーのリスト」等は、特に有名と言えるしょう。

この「A.I.」の中では、人類の過去の過ちであり今も世界を悩ませている「人種差別」が形を変えて横行しています。

ロボットを嫌う人間達の姿が、残酷なまでに描かれているのです。

それは私たちが映画の中で沢山観てきた、色の違いから起こる人種差別よりも遙かに酷く、普段は人間の為にこき使っているのに、数が増えるとその存在を否定し、破壊行為を起こしているのです。

自分たちで生み出しておいて、です。

何と勝手な行動でしょう。

必要だからと生み出しておいて、疎ましく思うから破壊する。

まるで、責任も持てないのにペットを飼って捨てるのと同じです。

共存する道はあるはずなのに、それを探さずに、胆略的な行為に走っている。

愛情を持つメカを造るまで至ったのに、肝心の人間自身は、まるで進化していません。

この描写は、スピルバーグが観客にどうしても訴えたかったもう一つの主題に思えるのです。

生涯秘密主義を貫いたキューブリック監督ですから、私たちのような人間が、どのような事を訴えたかったのかを知る事は出来ません。だから実際に人種差別というテーマをキューブリック監督自身が含ませていたのかも知れません。

しかし私は、断言します。

スピルバーグ監督の映画となった事で、その意味合いは強くなったと。


さて、違う事に目を向けてみましょう。

劇中のある台詞を思い出して下さい。

「人を愛せるなら、憎む事も出来るはず」

父が、ディビットの「あまりにも人間的な行動」に一種の不安を抱いた台詞です。

でもこの台詞は、ただの不安を描いただけではありません。

人間の愚かさを描いているのです。

話し合いが争いの最良の解決手段と言われる現在でも、人々は武器を手にとって戦います。

一方の民族からすれば、戦う相手は野蛮人だから、と短絡的な感情に流されている人も多い事でしょう。もちろん、そのような風潮にさせてしまうマスコミなどにも責任はあるのでしょうが、人間の思いこみがあるからこそ、そのようになってしまうのです。

そう、ディビットの父は、幾つか起こった事件の「表」だけしか見ていなく、「なぜディビットがそのような行動を取ったのか?」という「裏」を見ていなかったのです。

ディビットの異常とも見える行動の裏にある真実を見ようとしない姿勢が、この未来世界の人類の姿でもあり、映画の結末で描かれる人間の絶滅を招いたのだと言えるのです。

そしてその姿勢は、すでに映画の序盤でも既に描かれています。

一見、優秀な人類だけが残った理想の未来に見えますが、実は過去の過ちを見ず、同じ事を繰り返して荒廃して行く未来なのです。

いったい現在の地球に済む私たちの、どれだけの人々が気付いているのでしょうか?

残念ながら、上記の「破壊されている地球」と同じく、数パーセントしかいないのが事実だと思います。

夢のある未来は、本当の夢物語です。

少なくとも、私たちがその生き方を変えない限りは・・・


スピルバーグ映画と言えば、欠かせない大切な要素のひとつに音楽があります。

その音楽の作曲者、ジョン・ウィリアムスがいなければ、この映画は成り立たなかったと言っても過言ではないでしょう。

スピルバーグ監督の代表作と言えば、「E.T.」ですが、この「A.I.」も同じくジョンウィリアムスが担当しています。

しかし、その位置づけは「E.T.」の、時に胸躍らせ、時に悲しみを煽り、時に勇気を与える賑やかな音楽ではなく、登場人物の揺れる心情を見事に演出するという裏方に徹しているのです。

例えば、愛をインプットされる前のディビットとの日常を描いたシーン(DVDのチャプター4)。

まだ学習段階であるディビットの、家にある物への感心を音楽で表現したり、少しずつディビットを欲する欲に傾いてくる母親の心情を、静かに、しかし印象的に表現しています。

捨てられるシーン(DVDのチャプター13)での音楽は、母親に置いて行かれるという計り知れない寂しさと不安を、ルージュシティへ入るシーン(DVDのチャプター19)は、その自動車に乗り合わせた人間とメカ全ての、期待への胸の高まりを、などです。

CD単体を聞くサントラとしてはかなり地味ですが、映画と一体となった音楽としては素晴らしい仕上がりであると言えます。

ジョン・ウィリアムスについては私の大好きな作曲者でもあります。いずれ他のコラムで語る事もあるかと思いますので、音楽に関してはこれで終わりにしておきましょう。

音楽とは関係ない余談ですが、ルージュシティでの「憎まれる理由」を語るジョーの発言は、的を射ていると思いませんか?冷静に物事を判断出来るメカだからこそ見出せる結論ですが、それはこの映画の中に描かれる未来ではまさに的中しています。

現在の地球が、そうならない事を、私は切に願います。


親に愛をインプットされてから、日増しに豊かになるディビットの表情は、教授の部屋を見つけた時に絶頂に達します。演じるハーレイ・ジョエル・オスメントの演技が光り輝く瞬間でもあるのです。

しかしその後に待ち受けていた事実は何と残酷でしょう。

やはりディビットは人間にはなれないのです。限りなく近づく事は出来ても・・・

おそらく人間のように「頭が真っ白」になったに違いありません。

一人待たされるデイビットは、日増しに増大していく好奇心に駆り立てられ、隣の部屋へと足を運びます。

何を期待してと言うわけでもなく、人間と同じく、おそらくただ意味もなくその行動を生んだのだと思います。

そこに並んていたのは、幾つもの「ディビット」。

その衝撃は、人間でありたいと願うディビットの頭に釘を打ち付けたに違いありません。

しかしそれだけでは終わらないのです。

記憶の彼方に潜む、生まれた瞬間の映像が目の前に広がり、そして置いたままの顔の面が見据えている向こうをのぞき見、衝撃を受けるのです。

僅かの望みを持って信じていた自分は、人間ではなくロボットだったのです。愛してもらえる「特別な存在」ではなく、幾つもある中の、たったひとつに過ぎなかったのです。

そんなディビットに追い打ちを掛けるように、沢山並ぶ商品の箱と、シルエット。

ディビットのショックはここで頂点に達し、逃げるように部屋を後にします。

愛情を得ようとする事しか知らないメカにとって、認めざるをえない自身の出生の秘密はあまりにも衝撃的で、生きる意味さえも失わせるものでありました。そして、生み出した博士は愛情を持つ事がそこまで人間的にさせてしまうと予期していなかったのです。

ビルの上で一人しゃがみ込むディビットの表情は、愛をインプットされる前の無表情に近いものですが、うっすらと絶望の感情を覗かせています。このシーンの演技は、忘れられない演技のひとつです。

ついにディビットは、ポツリと呟き、海へと落ちて行きます。

一度プールの底に沈んだ経験を持つディビットが、自ら海へと落ちるという事は死を意味します。すなわち「自殺」。愛を得たメカは、怒りも得、ついには自ら命を絶とうとする選択までもを得たのです。

多くの人々は、この作品を「人間になりたいピノキオの物語」と例えていますが、ピノキオは最後は人間になります。しかしこの映画では、衝撃的な人類の未来と共に、永遠に絶える事のない母親の愛情を、独り占めする事で幕を閉じます。

あまりにも悲しすぎる最後ですが、血の通わないメカなのにあまりにも人間味に溢れ、最後の最後まで母を信じ、逢いたいと願う純粋さが、優しい涙を誘います。

最後の最後まで、愛を貫いたメカの物語なのです。

そう、ディビットはロボットでなく、サイボーグでもなく、アンドロイドでもない。

限りなく人間に近づいた「メカ」なのです。

優しさに包まれた夢を見続けるようにと眠るディビットの最後の姿には、キューブリックの死が重なって見えます。

死因である就寝中の心臓発作は、どんな体験なのか判りません。

しかし、きっと大好きな映画の事を夢見ながら安らかに旅だって行ったに違いない、そう願っているスピルバーグ監督の人間としての限りない優しさを感じずにはいられません。


さて今回のコラムはいかがでしたか?

前回からだいぶ時間が空いてしまい、申し訳ありませんでした。

そのお詫びと言ってはなんですが、来週再来週と2週続けて更新する予定でいます。

まず来週の作品は、当時史上最年少で文藝賞を受賞し話題になった作品の映画化である「アイコ十六歳」をお贈りします。

この作品に関しては2003年12月にDVDが発売されていますが、製作が1984年と古い作品である為にレンタルで探すのは非常に難しいと思われます。

しかし税込み2625円という、邦画としては良心的な値段なため、もしコラムを読んで気になった方は、是非是非ご購入ください。ネット上では、少ないですが中古も出回っているようです。

見られない方が多い事を考慮に入れて、次回のコラムはネタバレをしないよう気を付けます。

そしてその翌週の作品は、スタローンのもう一つの出世作であり来年いよいよ4作目が製作される「ランボー」です。

この作品に関しては、誰もが知っている作品ですので、ネタバレ全開で行きます(笑)

この2作品には何の繋がりもありませんが、私にとっては意味のある作品であり、繋がりのある作品なのです。

そのヒントの鍵は、以前紹介した「スターシップトゥルーパーズ」にあります。

それは・・・と、この辺りで終わりにしましょうか?

続きは来週のお楽しみ、と言う事で!


それでは、また!!


2001年アメリカ映画 146分

製作・脚本・監督 スティーブン・スピルバーグ

製作       ボニー・カーティス キャスリーン・ケネディ

原案       スタンリー・キューブリック

音楽       ジョン・ウィリアムス

出演       ハーレイ・ジョエル・オスメント ジュード・ロウ フランシス・オコーナー ウィリアム・ハート

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